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   筆名 出雲 隼凱
  
渡航(其の3)

 ウェイトレスに教えてもらった通り、道を辿っていくとそれは案外簡単に見つかった。それもそのはずで、サミス・インはかなり大きく派手な看板を掲げていたからだった。1階がレストランで、2階がホテルという店構えだった。レストランには遅めの昼食を摂っている客が数人いるだけだった。カウンターに近付くと、中に座っているやっぱりやる気のなさそうなウェイトレスがだらだらとカウンターの前に立って何も話さない山瀬に近寄ってきた。
「何か…」
ウェイトレスはがさつな話し方をした。日本だったら「いらっしゃいませ」等の気の聴いた言葉も聞けることだろうが、そんなことはあり得ないということを以前から承知している山瀬も気のせいかつっけんどんな態度になっていた。
「一泊いくら」
ウェイトレスの態度が気に入らない山瀬の言葉が自然とぶっきら棒になった。ウェイトレスはそれに気付いたらしくほんの少し姿勢を直したようだったが後の祭りだった。泊り客をとる場合は僅かにスタイルが違うのかもしれないと山瀬は思った。料理と違って食材費などの元手が余りかからないので利益率がいいということもあるのだろうか。どちらにしても癪に障る。山瀬は自分の気持ちが相手に伝わるようにわざと憤りを顔に浮べた。ウェイトレスは申し訳なさそうな表情を顔に浮べた。山瀬はそれ以上虐めるのも気が引け幾分顔の筋肉を緩めた。ウェイトレスはそれを見て取ったのかぎこちない作り笑顔をして見せた。山瀬は他のウェイトレスとはほんの少し違うぎくしゃくしたそのウェイトレスの雰囲気に愛嬌を感じた。
「朝食付きで650ペソです」
幾田優子から受け取った調査に対する当座のお金をいろいろな経費に割り当てて山瀬は宿泊料を一泊1000ペソと予定していた。それから比べれば安い宿泊料金だった。ただウェイトレスに言われた料金をそのまま飲み込んでしまう山瀬ではなかった。
「一週間泊まると一泊いくら」
こういう田舎の宿はだいたい泊まる日数によって料金が割引されることを山瀬は知っていた。
「一週間だと一泊550ペソですが、その場合料金は全て前払いになります」
山瀬の勘は当たった。経費が足りなくなったら連絡してくれという幾田優子との約束だったが、そう簡単にお金を請求できるものでないといというのが山瀬の考えだった。まずは今の手持ちのお金をいかに有意義に使うかということを山瀬は考えていた。とりあえずは宿泊費を約半分に抑えられた。山瀬はほんの少しだけ満足した。
「部屋を見せてもらってもいいかな」
ウェイトレスはそれを聞くと、山瀬に背を向けて何やら壁にかかった小さな箱のほうへ歩いていった。どうやら鍵箱のようだ。表面の扉を開けると釘に引っ掛けられたいくつかの鍵とその鍵についているキーホルダーが山瀬の目に映った。山瀬はウェイトレスから鍵を受け取った。部屋の番号は208と書かれていた。ウェイトレスがそれ以上動こうとしなかったので、一人で見てこいと言われているのだと勝手に解釈してカウンターから離れた。
 階段は途中で一度左に90度折れていた。上り詰めると廊下を挟んで部屋が約10室くらい両側に並んでいた。一番手前のドアの番号を確かめると201と札が貼られていた。その反対側の部屋は202となっていたので山瀬には当然208号室は中間の辺りにあるのが直ぐに分かった。部屋に入ってみるとカーテンが引かれているせいで幾分暗かった。ベッドはダブルベッドくらいの大きさで清潔感もあり申し分なかった。トイレも覗いて見たがこちらも清潔感では問題なかった。ただ山瀬の癖でホテルで部屋を借りるときはトイレの水を流してみる。これも問題なかった。さっきの宿泊費の節約の満足感が倍に膨らんでいた。
「そういえば朝飯付きだって言ってたから食費も少し浮いたな」
あまり期待できる朝食ではなさそうだったが、朝から高い朝食を摂るような山瀬でもなかった。大き目の皿にこじんまりと載せられた朝食のイメージが頭に浮かんでいた。
 一階のカウンターに戻り宿泊を決めたことをウェイトレスに告げると、何やら紙のようなものを渡された。宿泊の受付用紙だった。言われたとおり名前と住所を書き、それと合わせて財布から約束の一週間分の宿泊費分のお金を引っ張り出してカウンターの上に載せた。
「パスポートか身分証明書はありますか」
山瀬はジーンズの後ろのポケットからパスポートを引き抜くとカウンターの上に置いた。ウェイトレスは申込用紙とパスポートの名前が同じことを確認するとそれを先に山瀬に返した。次にお金を数え終わると領収証を書いてくれた。
「ありがとうございます。山瀬様」
期待していなかった言葉が山瀬の耳に響いた。気のせいかウェイトレスの目が少し生き返っているように見えた。
「名前はなんていうんだい」
一週間顔を合わせるのだから名前くらい聞いてもおかしくはないだろうと山瀬は思った。ウェイトレスは最初答えるのが恥ずかしいのか俯いていた。ほんの僅かな間ができたがそれでも笑顔で答えた。アイリーンというのが彼女の名前だった。山瀬は鍵を手に重い旅行鞄を引きずるように再び階段を上り始めた。疲れているのだろうか階段を上る足が重く感じられた。階下からアイリーンが他の客の相手をしている声が聞こえてきた。大きな声の外国人が訛った英語を話していた。
 部屋に戻ると心地よい眠気が山瀬の頭の中を取り巻いた。着の身着のままベッドの上にうつ伏せになった。これからの予定を考えなければならない山瀬の思考能力をその眠気が踏み切りの遮断機のように前に進ませようとはしなかった。とりあえずは目的地に辿り着いたという安堵感がその眠気を作り出していた。山瀬は無意識に眠りに落ちていった。窓の外はまだ明るく、その陽の光がカーテンを透して部屋の中に心地よく優しい雰囲気を創り出していた。淡く暖かい光は山瀬が眠った後も眠ることなく部屋を照らし続けていた。
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