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   筆名 出雲 隼凱
  
首輪(其の4)

 小町の家に入るとまだそれ程時間が経過している訳でもないのに湿気の臭いが山瀬の鼻をついた。マリーが掃除したのであろうか中は整然としていた。ワンルーム形式の部屋になっていてトイレと浴室を除いて特別壁で仕切られた部屋はなかった。ベッドの置いてある部分が一段高くなっているだけだった。浴室のドアの横に大きな棚が造り付けてあった。山瀬はその棚の前で足を止めた。一部本棚のようになっている。棚の左端に置かれた手の平に載る程の小さな写真立てには埃が被っていた。若い女の顔写真だったが左の方と下の方を切ったような後があった。その顔には笑顔を浮かべている。山瀬は若い頃の小町の写真なのだろうと思った。その本棚に何十冊もの本と背表紙がしっかりしたノートのようなものが数冊並べてあった。山瀬はそのうちの漢字で日記と書かれている一冊を手に取った。開いてみると確かに小町の日記だった。一番最初の日付を見ると小町が自殺した日の約一ヶ月前だった。山瀬は日記を読んでみた。猫や食事のことなど平凡なことしか書かれていなかった。読みながらページを捲っていくと小町が猫に首輪を付けてあげたことが書かれてあった。マリーの言ったとおり首輪は小町が付けたものだった。日記はその後破り取られていた。引きちぎられた跡が寂しさを感じさせた。他のノートも開いてみたが全く白紙の状態だった。
 外では昼食を食べに学校から戻ってきた子供達の声がしていた。フィリピンの学校では給食の制度がないので殆どの子供達は昼食時に家に帰宅する。
「お昼ご飯一緒に食べていきませんか」
マリーが子供達の声に反応したかのように山瀬を食事に誘った。山瀬はその声で後ろを振り返った。
「いやいや、初めて訪ねてきたのにそんな厚かましい事できませんよ。私も一旦ホテルに帰って昼飯でも食べることにします」
山瀬は手にしていた白紙のノートを丁寧に棚に戻した。
「そうですか。今度いらしたときは是非一緒に食べていってくださいね」
「ありがとう」
マリーは山瀬を先に外に出してそれから自分も外に出るとドアへ向き直り鍵を掛けた。山瀬の耳にその鍵の閉まる小さな音が重く寂しく響いていた。
 再び山瀬の肌に太陽の直射が襲ってきた。その痛みを和らげるように海からの潮風が吹き抜けていった。坂道を下り海沿いの大通りに出ると、さっき小町の家の外で見たのと同じ昼食のために一時帰宅する子供達を乗せたトライシクルが数台走ってきた。山瀬はそのうちの乗り込めそうな1台を止めて乗り込んだ。
 トライシクルが走り出すと山瀬の肌は急激に冷やされた。さっきまでの痛みが嘘だったように山瀬の感覚はうっとりと眠気に誘われた。トライシクルは子供達をそれぞれの場所に降ろしながら走り続けた。止まる度に路面で温められた熱気が山瀬を襲ったが、眠さのためにそれは然程気にならなかった。海は太陽の日差しをしっかりと受け止めながら鮮明な青い色を放っていた。
 サミス・インに戻るとカウンターでアイリーンが客の相手をし終えたところだった。あまり美味しいとは言えない料理だがお昼時にはレストランに腹を空かせた人たちが数人やってくるようだ。山瀬がカウンターに近付くと部屋の鍵を渡そうとした。
「いや…。まだいいよ。何か食べようと思ってるんだけど」
山瀬はそう言いながらカウンターの上に置かれた鍵をアイリーンの方へ押し返した。昼食のこともあったが、食べた後に海岸に行って海でも眺めてみようという気持ちもあった。検死官の話も聞かなければならなかったがどうも無駄な時間を使いそうで気が乗らなかった。
「何か美味しいランチはないかな」
心地いい空腹感が山瀬の食欲を刺激していた。特別好き嫌いのない山瀬だったが、昨夜は肉の料理を食べたこともあって少しさっぱりしたものを食べたかった。
「焼き魚はどうですか」
まるで山瀬の気持ちを読んでいるかのようにアイリーンが答えた。昨日は気の利かなかったただの愛想の無いウェイトレスが人が変わったように見えた。山瀬の頭の中に焼き魚のイメージが浮かび上がった。唾液が口の中を満たしていく。もう何も考える余地はなかった。
「いいね。じゃそれお願いするよ」
「ライスはどうします」
これまた気が利いている。
「じゃあライスを1つとビールを1本もらおうかな」
昼食時にはあまりアルコールを飲まない山瀬だったが、気の利いているウェイトレスを見て浮き浮き気分になって思わずビールを注文してしまった。山瀬の悪い癖だった。
「ビールは先にもらおうかな…」
ビールをカウンター越しに受け取ると、空いている窓際のテーブルに腰を下ろした。
 小町の事件をほんの少し頭の中で組み立てようとしてみた。しかしその少ない情報を組み立てあげることが無理なことくらい山瀬にも分かっていた。自殺ではないと考えている小町の母幾田優子の気持ちが分からなくはなかったが小町の身の回りを世話していたと言うマリーでさえも全く自殺の原因を知らないと言う。ふと山瀬の頭に単純な考えが浮かび上がった。
「動機のない自殺なんて存在するのだろうか…。いや、有り得るはずがない、と言うことはやはり何かあったと仮定して行動しなければならないのか…。何か残しているはずだ。ただ遺書はなかったと地元警察の調査で分かっているし、小町さんいったい何を残したんだ…」
山瀬は心の中で死んだ小町に問いかけていた。
「残したもの…。残すとすれば家の中のはずだ。もう一度小町さんの家に行ってみるしかないか」
山瀬は無意識に首を小さく縦に振った
 左手に掴んでいたビールの中身がほぼなくなる頃アイリーンの薦めた焼き魚がテーブルに運ばれてきた。
「お待ちどうさま」
また気が利いている。こういう小さな相手を気遣う言葉が山瀬は好きだった。山瀬はさっさと香ばしい焼き魚を食べ終わると支払いを済ませた。レストランにはまだ数人の客が残っていたが、皆それぞれ自分の食事を済ませたらしく、タバコを吸ったり新聞を読んだりしていた。山瀬には残された昼食時の時間を外の暑さを避けるためだけに只そのような仕草をしているように見えた。そうして山瀬も食事の後のヒューマンウォッチングを楽しんでいた。店内にいても路面からの太陽の光の照り返しが容赦なく目に入ってくる。山瀬は他の客の観察に飽きるとサミス・インを出た。食後の散歩がてらに海に行ってみることにした。
 日陰に入ると湿度が低いためにかなり過ごし易い。海の青さが目にも清々しさを運んでくる。漁師が一人破れた魚網を縫い直していた。潮風が穏やかに山瀬の肌の火照りを拭い去っていった。空腹感をどこかへ押しやった後のこのひと時をこの状況下で過ごせる幸福感は他に例えようがない。山瀬は何も考えずに砂の上に腰を下ろした。砂は熱さでさらさらに乾ききって、そのまま腰を下ろすと柔らかい座布団に座っているような感覚を腰に与えてくれた。山瀬の人差し指が無意識に砂に文字を書いている。書き終わると手のひらの消しゴムがその壊れ易い文字を平らにして跡形もなく消し去っていく。書いては消し書いては消し、最後にさっきマリーの家で見た猫の首輪に書かれた角ばった「CC」の文字を書き残して立ち上がった。
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